「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」って語っていた変なおじさんが、本当に神様になってしまった話
2020年4月8日(水)
今日も春らしいいい天気でしたが、東京は緊急事態宣言の初日。入管申請業務に携わる遠くない未来を信じて、朝から、入管業務の勉強に勤しんでいました。
さて、タイトルの「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」というフレーズですが、これでピンときた方、やはりドリフ大爆笑通の方でしょうか?
志村けん(偉大なるコメディアンとしての地位を敬して、あえて呼び捨てにさせて頂きます)がなくなってはや一週間、日に日に喪失感が出てきます。TBSラジオ「爆笑問題カーボーイ」で太田光氏が、「みんな遺族みたいなもの」と発言していましたが、僕にとっても御多分にもれず「変なおじさん」は近い親戚のような感じだったのかもしれません。
1981年生まれの僕にとって全員集合の記憶はなく、志村けんといえば、「ドリフ大爆笑」か「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」でした。特に「ドリフ大爆笑」は子供ながらに大好きで、当時はテレビ放送中にラジカセの録音ボタンを押して、2時間番組のコントすべてを何度も聞き直すぐらい好きでした。「ドリフ大爆笑87」とテープのラベルに書いてた記憶があるので、6歳ぐらいの頃かな? 他の子と比べてもなぜかお笑いへの興味は強かったようです。
その後同世代の男子と同様、90年代にダウンタウンのシュールなお笑いの洗礼を受け、いわゆるドリフ的なベタなお笑いへの興味は少しずつ薄れていったのですが、二十歳のころ、志村けんが書いた「変なおじさん」そしていかりや長介氏が書いた「だめだこりゃ」という本を読んで、ベタで普遍的なお笑いを創り出すためにとんでもない努力をしている事を知り、また新しい視点でドリフへの尊敬の念が沸いてくることになります。
僕の興味はそこからドリフのコミックバンド時代の先輩、クレイジーキャッツおよび植木等まで遡り、戦後のコミックジャズバンドとお笑いの歴史まで掘り起こすようになっていきます。ポストダウンタウンのお笑い芸人にみられるフリートークでの話芸と異なり、ドリフやクレイジーキャッツに見られるベタな笑いの源はバンドの連帯感であり、基本的な音楽的センスがないと作れない笑いなんだと理解するに至りました。
志村けんもたしか自著の中で、ソウルとかR&Bなどが好きでコント中のBGMも自分で選曲している、って書いていたような。お笑いって感覚的なものだし、センスが重要だとも思うのですが、音楽で培ったセンスにルーツをもつ昭和の喜劇人の系統の最後が志村けんだったように思います。
そんな音楽で培った「間」ともう一点、志村けんを唯一無二にしていたのは、おじいさんおばあさん役を演じた時のコミカルな模倣スキル。ダウンタウンや中川家のコントを除くと、今の芸人が老人を演じた時に物足りなさを感じるのは、核家族化が進んで生活での接点を失い、祖父母世代の喜怒哀楽に触れる機会が少なくなったからなのかな、とも思っています。
行政書士のブログとは思えない内容になってしまいましたが、物心ついて30数年、いつも笑わせてもらった分、いまだに喪失感が抜けません。
年老いて耳が遠くなった神様を志村けんが演じるコントで、その決め台詞が「とんでもねえ、あたしゃ神様だよ」これが、僕が大好きなコントでした。
人間だれしも年を取る悲哀が伝わる秀作で、哀しくも楽しい。DVDとかでは残っているはずなので、興味のある方はぜひ観てみてください。