1930年代に日本の華族とエチオピアの皇族が国際結婚する予定だった話

2020年4月23日(木)

本日は1930年代に「世紀の婚約」と騒がれた実話に基づくノンフィクション本、「マスカルの花嫁」の紹介。

現在日本国内には60万組ほど国際結婚されたご夫婦がいると言われていますが、今回紹介したいのは、華族出身の日本人女性、黒田雅子さんと、当日のエチオピアの皇帝ハイレ・セラシエ1世の親族、アラヤ・アベバ王子の幻に終わった結婚のお話。

親日国家として知られるエチオピアで有名なものと言えば、一般的にはエチオピアコーヒーやマラソン選手がイメージされると思うのですが、帝国主義時代にアフリカで唯一独立を維持した国家としても知られています。当時の皇帝としてエチオピアの国体を維持し続けたハイレ・セラシエは、植民地として搾取された世界中の黒人たちにとってのアイコンとしても実に有名です。ジャマイカにいるアフリカ系移民たちによるアフリカ回帰主義、「ラスタファリズム」の中でもセラシエは神の化身として崇拝されていますし、1960年代~70年代にアメリカで活動していた黒人解放をうたう政治組織、ブラック・パンサーなどにも影響を与えていたといわれています。
(エチオピア国内ではセラシエの独裁的手腕の評判が悪く、現在も高い評価は受けていないようですが)

さて国際結婚など珍しかった1930年代の当時、なぜエチオピアの王子と日本の華族の結婚話が上がったというと、これもまた興味深い話で、まず、当時のエチオピアはムッソリーニ率いるイタリアからの侵攻の脅威にさらされており、他国に助けを求める必要があった。そんな時、日露戦争で大国ロシアを破り、列強国の仲間入りを果たしたアジアの小国日本に注目したそう。エチオピアも日本も同じ皇帝統治の国から発展していった日本を学ぶ事があるだろうと考え、エチオピアから訪日使節団を組んだのが話の始まり。

この訪日使節団の一員として、来日したのが、セラシエの従弟の子であるアラヤ・アベバ王子。彼は日本を大変気に入り、純粋な思いで、周辺の者に日本人を妻にもらいたい事を告げる。その気持ちに答えるべく日本側も動き、朝日新聞に「エチオピアの皇族が日本人女性の花嫁募集」という記事を掲載したところ、戦前の抑圧された男性社会に嫌気を指していた多くの女性が手を挙げ、その中から選ばれたのが華族出身の黒田雅子さん。

この話は「世紀の婚約」と新聞で多いに騒がれ、お付きで構わないからエチオピアに行きたいというエチオピア移住希望者も多数いたそうです。

アベバ王子と黒田雅子さんの個人の思いとは別途、イタリアの侵攻に対抗するべく日本からの支援を求めたいエチオピアの思惑、日本側からはアフリカにおけるビジネス進出の足掛かりとしたい思惑、エチオピアを侵攻する上で、日本と組んでほしくないイタリアを始めとするヨーロッパの列強各国の思惑など、様々な政治が動いた結果、この縁談は最終的に破談となってしまいました。
(この縁談の破談後、みなさんもご存知の通り、日本はエチオピアの敵国であるイタリア、そしてヒットラー率いるドイツと三国同盟を組み、第二次世界大戦に突入していくことになります)

日本の戦前史好きとして興味深いのが、この縁談を進めていたのが、当時の日本政治の黒幕とも呼ばれた頭山満の顧問弁護士であった角岡知良氏。頭山満とは入魂の仲と言われており、この動きに頭山の意向が反映されていたことは間違いない。大アジア主義を掲げる中、ベトナムやインドの独立運動を支援する延長としてエチオピアも手助けしようと思ったのか、それともアフリカに新しい「利」を求めて手を伸ばしたのか、今となっては分からないですが、当時、六本木芋洗坂にあった角岡邸には、多くのエチオピア人が出入りしていたそう。現在、国際色豊かな六本木では多くのアフリカ系の方が飲食店等で働いていますが、その走りがエチオピア人だったのかもしれません。

ちなみにこのノンフィクション、1980年代~90年代に、幻の花嫁となった黒田さん、幻の花婿となったアラヤ王子双方から直接話を聞き、丁寧に事実を積み上げていく良作です。もしご興味持った方はぜひ!

マスカルの花嫁

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